猛者列伝より 7

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その7 池谷公二郎投手
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凄さと脆さとが同居した『好漢投手』 

「まるで、つかみどころのない投手だった」
そう結論づけたら本人に失礼だろうか。

しかし、あえてその称号を進呈したいほど、池谷公二郎には剛と柔、強気と弱気、あるいは長所と短所が入り交じった不思議なところがあった。

池谷は静岡商業高卒業後、金指造船に入社したが、1年もしないうちに野球部が解散。浪人の身の上になってしまった。
野球協約では社会人のチームに入った選手は3年間プロ野球に入ることはできないが、池谷は特別措置として近鉄に7位指名された。
しかし、「プロ入りのチャンスはまだある」と日本楽器へ移籍している。

昭和47年10月にニカラグアで開かれた世界選手権に全日本のエースとして出場した池谷は、大会での好投が関係者の目をひき、大リーグのパイレーツのスカウトに勧誘されるほどの脚光を浴びた。

この大会期間中に日本ではドラフト会議が開催され、池谷はカープに1位指名されたことを知った。
しかし廃部となった前野球部からこころよく引き獲ってくれた会社への義理から、もう1年残って恩返しをしてからカープに入団することにした。
このあたりは律儀で好漢といわれる池谷らしいエピソードだ。

さて、つぎのシーズンもフィリピン・アジア大会の台湾戦でノーヒットノーランを記録したり、イタリアのインター・コンチネンタル大会では優勝投手となるなど、池谷は輝かしい実績を積んでカープに入団してきた。

当然のこと周囲は期待した。
「10勝は固い」と首脳陣もファンも踏んでいた。
新人賞の呼び声も高かった。

ところが、オフに手術した虫垂炎の影響か結果は2勝4敗の成績に終わってしまった。

しかし池谷は翌年から、けっして美しいとはいえないピッチングフォーム同様「つかみどころのない投手」として本領を発揮しはじめる。

  50年 18勝11敗 防御率3・32(15位)  カープ初優勝に貢献
  51年 20勝15敗 防御率3・26(4位)  最多勝利

文句のつけようのない記録だ。しかしこの数字は池谷の『凄さ』という一面をあらわしているに過ぎない。もう一面をつぎに記そう。
 
  50年 投球回数244 被安打242本(シーズン最多) 奪三振131個
  51年 投球回数290 1/3 被安打271本(シーズン最多)
     奪三振207個(シーズン最多)
  52年 投球回数226 被安打241本 
     被本塁打48本(シーズン最多・日本記録) 奪三振176個(シーズン最多)

入団2年目、カープが初優勝した昭和50年に18勝をあげてエース格となったシーズン、池谷はほぼ毎回のようにヒットを打たれる『安打配球王』ともなっていた。
翌年、20勝をあげて最多勝に輝き最多奪三振王に輝いた裏では、2年連続して『安打配球王』の“名誉”に輝いていた。

翌52年には、2年連続して奪三振王となったと同時に、1試合投げれば10本近くヒットを打たれ、なおかつ『1シーズンでもっとも多くのホームランを喫した投手』となっている。

乱暴な言い方をすれば、池谷は、「めっためた」にヒットを打たれながら、「ばったばった」と三振を取り、ホームランを「ばかすか」打たれながら、いつの間にか勝っている。そんな投手だったということになる。

昭和53年9月12日の対中日戦。最終回に中日の小松健、田野倉、石井を3球ずつで三者連続の空振り三振にしとめるような快投を見せるかと思えば、棒球をつるべ打ちされて火だるまになって、あっさりと降板したり、またつぎの試合ではいとも簡単に完封勝利を飾ってみたり、ファンをやきもきさせながらも楽しませてくれた投手だった。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-04-20 11:39 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 6

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その6 渡辺弘基投手
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もっとも熱かったシーズンに光った左腕

「おいしいとこ取り」
こういっては渡辺弘基に失礼だろうか。しかし、いいとこどりに変わりはない。

渡辺は通算で8勝(カープに在籍した5年間で7勝)しかしていないピッチャーなのだ。にもかかわらずファンの脳裏に渡辺の投球シーンはこびりついて離れない。

それはとりもなおさず、昭和50年、あの初優勝のシーズンの微熱の中で執拗に顔を出していたピッチャーだったからにほかならない。

渡辺は昭和47年、ドラフト1位で阪急に入団した。指名順位1位でわかるように、社会人ではかなり実績があった。
しかし阪急時代の2年間に40試合に登板して1勝しているにすぎない。

ところが昭和50年にカープに移籍してくると、別人のように安定したピッチングを見せるようになる。
ゆったりとしたフォームのサウスポーからキレのいいストレートと、大きく割れるカーブをコンビネーションよく投げ込み、渡辺はしだいに首脳陣の信頼を得ていった。

チームが快進撃をはじめた球宴後に、渡辺の八面六臂の活躍もはじまる。というよりも、渡辺の獅子奮迅の活躍でカープの快進撃がはじまったというべきか。

全試合ベンチ入りしブルペンで準備している渡辺に、毎試合のようにピンチになるとお呼びがかかる。
 「ピッチャー、わたなべ」
あのシーズン、この声を何遍聞いたことだろう。そのうち渡辺はじぶんでじぶんの出番がわかるほどだったという。

特筆にあたいするのが8月19日の阪神戦からの4連投と、それにつづく27日からの5連投。
まず阪神戦でアルトマンのワン・ポイントに使われ二塁ゴロにさばき、翌日は3イニング、つづく21日は5イニングをぴしゃりと抑えるなど、ほとんどでずっぱりで窮地を救い、3勝3敗1セーブの数字以上の働きで初優勝に貢献した。

「渡辺こそ陰のMVPだ」
古葉監督をしてそういわしめたほど、それは神懸かりの活躍だった。

渡辺の選手生活は、カープ初優勝のためだけにあったといっても過言ではないだろう。
そして「おいしいとこ取り」の野球人生でもあった。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-04-16 12:08 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 5

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その5 水谷実雄外野手
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天候人生の後につかんだ『ビクトリーボール』 

カープ・ファンにとって一番印象的な試合をあげるとすれば、だれもが昭和50年の初優勝をあげるだろう。
10月15日の後楽園球場。巨人最後のバッターとなった柴田勲が打ち上げたフライが夕焼けの空を背景にゆったりとあがり、やがて外野手が構えたグラブへとおさまった。

午後5時18分。
その瞬間、ちょうど四半世紀の間ファンが待ちに待ったカープの初優勝が決まった。そのウィニング・ボール、いやビクトリー・ボールを捕るという光栄に浴したのが水谷実雄だった。

それはカープというチームにとっては初優勝を決定したアウトだったが、水谷にとっては不動のレギュラーの座をがっちりとキャッチした瞬間でもあった。

その年を境に、水谷の球歴をわけてみる。
水谷は昭和41年に入団しているから、50年のシーズンがちょうど10年目ということになる。
その前半の10年を見てみると、あの日の後楽園球場に選手としていたことすら不思議でならない。それほど不遇だった。

水谷は40年、宮崎商業三年生のときに、主戦投手・四番打者として甲子園に出場している。
準決勝まで進んでベスト4。甲府工業高校の堀内恒夫とも投げ合い、ヒットも打っている。

その年のドラフトでカープに3位指名されたが、契約した直後に急性腎炎を患って倒れる。
40度近い熱がひと月もつづいたという。
患者の三割は死ぬ病気だと宣告され、「野球をやめないと、生命の保障はできない」とクギを刺されている。

プロのスタートからこれほどの試練を与えられた選手も珍しいだろう。
『ジンちやん』のニックネームはここからきたというのだから、苦笑するのもはばかられるような話だ。

悶々とした時間を送った水谷。
 「わしから野球をとったら何が残るのか」と、あらためてプロ選手としての決意をかためる。

キャンプに合流したのは、もう開幕間近の3月下旬だった。
もちろんすぐにファームに直行だ。
当時二軍監督だった藤村隆男の温情で、一年間ボールも握らず漢方薬を飲みながら、ランニングやウエイト・トレーニングで基礎体力をつけるだけの日々を水谷は過ごす。

ところで、後年の水谷しか知らないムキには想像できないかもしれないが、水谷は背番号「38」の投手として入団していた。
それが43年には肩を壊して内野手に転向せざるをえなくなった。
 「マウンドから離されるのはつらかった」という。

当然のこと二軍でのトレーニング生活がはじまった。水谷は一塁と三塁の守備練習をこなし、剣道の防具をつけて素手で捕るようなこともした。
売り物のバッティングを磨くために、シーズン・オフには球団からボールを山のように借りて帰り、いやというほどティー・バッティングをしたという。

高校時代四番で素質には恵まれていたとはいっても、すぐにポジションが取れるほどプロはあまくない。一軍入りは夢のまた夢。二軍のレギュラーポジションを狙うのに必死だった。
内野の守備も上達せず、いつからか外野に入ることが多くなった。

外野手転向で守備の負担が少なくなった水谷は、しだいにバッティングの才を発揮しはじめた。そして二軍の近鉄戦で1試合4ホーマーのばか当たりをしたのが首脳陣の目をひいて、ようやく一軍に昇格した。入団4年目、44年のシーズン途中だった。 

昭和45年、ようやく外野手として一軍に定着した水谷は、106試合に出場。打率.244。本塁打7本の成績を残した。 

翌46年には125試合に出場して打率.283。衣笠についでベストテン3位に入る活躍を見せる。この年3割をマークしたのは長嶋だけだから、かなりハイ・レベルの数字である。

これでポジションを獲った、と誰もが思った。ところがその翌年、カープは初めて外人選手と契約した。それがゴンザレスという外野手。水谷の出番は必然的に減らされた。出場試合は109だったものの、打数は150近くも減って344。打率も2割6分台にさがった。

明くる48年のシーズン、監督が別当薫にかわると、こんどは打撃フォームの改造をせまられる始末。じぶんの活路をバッティングに見いだし、こつこつと築き上げてきた打撃フォームを、あとからのこのこやってきた監督に簡単に覆されてはたまったものではない。水谷は我をとおして譲らず、必然的に干された。

イチローがやはりフォームをかえなかったために入団してしばらくは二軍からあげてもらえなかったのは有名な話だが、似たようなケースだ。

そして、あの50年。カープにはシェーンが入団してきた。
入団直後に大病に見舞われ、やっとはいあがってポジションを手にしたと思うと、のこのこやってきた外人選手にとってかわられる。そんな不遇に追い打ちをかけるように、毎年のようにもちあがるトレードの噂。夫人からはそのたびに「郷里に帰ろう」と懇願れたという。

バッティングが売り物とはいえ、周囲を唸らすだけの個性があるわけではない。長打力もほどほどにある。打率もそこそこに稼げる。しかし、どっちつかずだった。 

「長打か打率か」
 これからプロのバッターとしてやっていくためにはどうすべきか。選択をせまられた水谷は、後者を選択した。大きいのは犠牲にし、塁間を鋭く抜くヒットを狙うバッティングに改造することにしたのだ。

他人からの強制には頑固な水谷だったが、みずからの選択なら冒険も辞さない。試行錯誤の中からうまれたのが、バットをピッチャーに向けて寝かせて構える独特のフォームだった。

あのビクトリー・ボールを捕った翌シーズン、水谷の打率は3割を8厘超えた3割バッターとなって、やっと不動のレギュラーの座をみずからの手で勝ち取った。
翌年はまた上積みして打率.312。そして初優勝から3年後の昭和53年、ついに水谷は首位打者を獲得した。打率は・348の高打率。文句のつけようのない数字だった。
ちなみに、これはいまでもカープ球団の最高打率の記録となっている。

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堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-04-15 20:11 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 4

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社


 カープ初優勝戦士 その4 三村敏之内野手
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野球人生をスマートに生きた『たぐい稀なセンス』 

野球には数字にはあらせない、あるいは出てこない、数値化できないセンスというものがある。

ゴロを捕り、送球する。成功すればアウトだし、失敗すればエラーになる。
投球を打ち返す。野手の間を抜ければヒットだし、刺殺、あるいは捕球されればアウトになる。

記録にすればただそれだけのことになってしまうが、ひとつひとつのプレイの周辺にはさまざまなセンスが介在する。
守備でいえば、守備位置の取り方、咄嗟の状況判断、フットワーク、捕球の仕方、スローイング、すべてに選手独特のセンスがある。それはもちろん体操のように採点することはできないものだし、素人にはよく見えない部分でもあるのだが……。

カープの球団史上もっともセンスにあふれていたひとりが三村敏之だろう。バッティングや守備の技術にきらめくようなセンスがあったのはもちろんだが、プロ野球人としてのじぶんのスタイルを客観的に見るセンスも持っていた。ある意味ではクレバーであり、クールでもあった。

広商時代は俊足好打、そして好守のトップバッターで、『広岡二世』とも評されていた。
卒業後は法政大学に進むつもりで、セレクションまで受けていたが、ドラフトでカープに2位指名される。それでも三村は別に有頂天になるでもなく、誘いを断りつづけていた。

その三村が、ある日翻意をする。スカウトの熱意にほだされたこともあったが、
「いつか上でやるんなら同じこと」と、客観的に人生の状況判断をした。

三村は、中学から高校と控えになったことがなく、プロでもついに二軍を経験することのなかった『野球エリート』だが、入団後の三年間は低迷した。低迷しながら使われつづけた。それだけセンスを見込まれ、期待されていたわけだ。

  42年 打率・182 6盗塁
  43年 打率・210 7盗塁
  44年 打率・200 9盗塁

プロ野球は、センスを見せるところではない。センスを活かして』数字』と『結果』とを残さなければ生きてはいけない世界だ。とすれば、この三年間の成績では首脳陣の覚えもめでたくはないだろう。
じっさい戦力外の話もでたという。

三村のその窮地を救ったのが、かつてじぶんが喩えられた先達・広岡達郎だった。
「才人才を見る」とでもいうのだろうか、44年のオフからコーチとなった広岡は、三村のいまだ発揮しきれていないセンスに目を留め、首脳陣を説得し残留させたのだった。

巨人の名ショートとしてならした広岡は、広岡二世・三村をあずかるようにして鍛えた。一方、さすがにクールな三村も「このままではプロ野球界で生きてはいけない」
そう思って尻に火がついただろう。ふたたび与えられたチャンスを懸命につかんだ。

一番・ショートで出場しはじめた三村は、開幕からひとが違ったように打ちまくり前半戦の打率・272、カープ打撃陣のトップを維持し、はれてレギュラーの座を不動のものにした。

翌46年には、セ・リーグ発足22年目にしてはじめての記録となる開幕戦の初回先頭打者ホームランを記録。シーズンでもふたケタとなる15本塁打を放ち、長打力の片鱗もみせた。

三村が最初で最後の3割を打ったのは翌47年。・308でヤクルトの若松についで2位となり、初のベストナインにも選ばれている。
このシーズン以後、三村は3割をマークすることはなかったが、それは三村が3割を打つ力がなかったからではなく、3割を打つ必要がなかったと解釈した方がいいだろう。

昭和50年に加入した大下が二年間セカンドを守った時期にショートに定着していた以外、三村はショート、セカンド、サードの3つのポジションに入っている。いわゆるユーティリティ・プレイヤーだ。
打順もトップからクリン・アップ、そして下位まで経験している。

そのシーズン、その日のメンバー構成によって、三村のポジションと役割は常に変わった。そのときどき、ポジションで期待されるプレイを及第点でこなす。それが三村の役割であったし、三村だからこそそれができた。

生涯の通算成績の数字にはあらわれない部分。そこに三村のたぐい稀なセンスが潜んでいる。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-03-18 15:36 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 3

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社



 カープ初優勝戦士 その3 衣笠祥雄内野手 
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フルスイングに美学を求めたロマンチシズム 

1996年6月14日、カンザスシティのカウフマン・スタジアムでのロイヤルズ戦で、ボルチモア・オリオールズのカル・リプケン選手がスタンドを埋めた大観衆から盛大なスタンディング・オべーションを受けていた。それは彼の不屈の闘志、弛まぬ努力、そしてなによりベースボールを愛してやまないスポーツマン・マインドに対する賛辞の表現だった。

その群衆の中にひとりだけ、すこしちがった感慨をいだいていただろう男がいた。その男は、同じ心境を共有することができる唯一の人間の出現に歓びを感じていたかもしれないし、なんともいえない安堵感を抱いていたかもしれない。

衣笠祥雄。彼はルー・ゲーリッグの連続試合出場の記録を破った際に言っている。
「だれかがこの記録を更新してくれるのを待っている。この記録を本当に理解してくれるのは、その人間だけだろうからね」
衣笠の連続試合出場『2215』という数字にこめられたすべての思いを理解できる男、カル・リプケンがあらわれた。そして彼が『衣笠の世界記録』を更新するという熱狂のなかで、“キヌガサ”は世界に認知された。
その日の前日、つまりカル・リプケンが衣笠の連続試合出場の世界記録に並んだ6月13日、それは奇しくも、その九年前に衣笠がゲーリッグの世界記録を抜いた日でもあった。

衣笠の野球人生を検証してみると、その明と暗とがはっきりと浮き彫りになる。彼のバッティングそのまま、まさに『三振かホームラン』だ。
昭和39年、平安高校三年のときに衣笠は春・夏連続で甲子園に出場している。通算で14打数5安打1打点の成績だったが、975グラムのバットをふりまわす強肩強打の捕手として注目された。
翌40年、ドラフト制度が導入される前年にカープに入団。契約金1000万円、年俸120万円。当時の球団の経済状態を考慮すれば破格だった。

ここまでは見事な『ホームラン』だ。しかし、すぐ次の打席では『三振』してしまう。

入団そうそうの日南キャンプ。自主トレもろくにしていなかったにもかかわらず、衣笠はまわりにいいところを見せようと、はりきりすぎて肩を痛め、3日後にはまともに投げられない状態になってしまう。そしてついに肩は回復することはなかった。

ブルペンにも入れず、バッティング練習の捕手をつとめるだけのキャンプ……。5月になってやっと一軍ベンチ入りした日、ピッチング練習で大羽投手が投げたフォーク・ボールが受けられない。〝ストン〟と落ちる球にミットがおいつかないのだ。

「もういい」と見放されて《捕手失格》。あえなく『見逃し三振』してしまった。
それでも打力を買われてゲームに出ることはできた。一軍初出場は5月16日、中日球場の対中日7回戦。九回に佐々木勝の代打で出場し、坂東の二球目を叩いていいあたりの右飛。その後も低迷するチームに刺激を与えるためか、白石監督はルーキーの衣笠を機会あるごとに代打で使いつづけた。

シーズン途中に低迷するチームの責任をとって白石が辞任し、監督が長谷川にかわると、7月25日の大洋戦で早くも先発メンバー入り。その一か月後の8月22日には、阪神のエース村山から広島市民球場の一万人の観衆の前で初ホームラン。ツー・ボールからの3球目、真ん中高めのストレートを「からだをうまく球に乗せて」左中間スタンドの照明灯の下までライナーで運んだ。これはまさに衣笠にとって文字通り『会心のホームラン』だった。

結局、その年は22試合に出場して44打数で7安打。打率は・159。ホームランはその1本だけに終わった。

翌年は32試合に出たものの、ほとんどが代打で34打数5安打、打率は・147。ホームランは1本もなかった。
42年は48打数12安打で・250。ホームラン2本。この三年は低迷つづきで〝3打席連続三振〟というところか。

そんな衣笠が『出合い頭のホームラン』を打つチャンスをもらう。43年から就任した根本陸夫監督が、いきなりスタメンで五番、一塁手の大抜擢をしたのだ。
 《捕手失格》の烙印をおされた衣笠は、3年目のシーズン途中から一塁の守備練習をはじめていた。それが生きることになった。衣笠は期待に応え、127試合に出場して一気に109安打を量産し、打率・276。うち21本がホームランで、主砲山内とならんでチームの本塁打王に輝いた。ホームランの少なかったカープにとって、待望の長距離砲の誕生だった。
 
ところで衣笠のように、歴史に名を残す打者でありながら三割を一度しか打っていない選手も珍しいだろう。超一流の打者の仲間入りをしているものの、その本流からは少しはみでた、どこか不器用さというか愚直なイメージがつきまとう。そんな選手像を決定づけたのが、この年の活躍にあったのかもしれない。

貧打に泣いたカープの40年代。そんな時代にあって衣笠はホームランを期待され、衣笠自身も「ホームランか三振か」というフルスイングに美学を求めるタイプだった。

175センチ73キロは、ホームラン・バッターとして決してめぐまれていたわけではないが、野村克也のように何かスタイルを変えれば量産できるだけのパワーは持ち合わせていた。
 
「ボールを飛ばすんじゃない。ボールに飛んでいってもらえ。もっとボールを信用しろ」
 そうアドバイスする山内などの忠告にも耳をかさず、衣笠はじぶんのスタイルを守り、ボールを「ガツン」と叩いて飛ばしにいった。打率にしても、意識してアベレージを求めれば、何度でも三割は打てただろうといわれる。

その衣笠の『ホームラン美学』が狂おしいほどの光彩を放った一瞬がある。連続試合出場に赤信号が灯った試合、江川との対決だ。
昭和45年10月19日の巨人戦からはじまった衣笠の連続試合出場は、54年8月1日の同じ巨人戦で西本から肩甲骨にぶつけられたことで大ピンチとなった。左肩甲骨亀裂骨折。それが診断の結果だった。

「当たった個所にはボールの縫い目の痕がくっきり残り、皮膚の下にはボール大の血腫。手は脇から30度ほどしかあがらなかった」という。

過去に左手親指を骨折したときには、膨れて入らなくなったグラブのヒモをといて穴を広げて守備についた。だが、こんどばかりはだめかと、本人も周囲も思った。ところが「朝起きたら、あがらないはずの左手があがった」。

翌日の試合、衣笠は代打で登場した。そして江川のストレートをめいっぱい振って三球三振にたおれた。
痛む肩をかばうなら、四球を選びにいっても構わない。適当にスイングして凡打でも出場は出場だ。連続出場の数字にはかわりはない。しかし一球たりとも見逃すことなく、衣笠は三回ともフルスイングした。見ている方が背筋が寒くなるような張り詰めたシーンだった。

「それにしても江川の球は速かったね」
痛んだからだで、なおかつ振りきれた充実感が言わせたことばだろう。

もしあのとき、連続試合出場の記録がかかっていなかったらどうだったろうかと思う。 
「打てるという気持ちがなければ打席には入らなかった」と述懐する衣笠であれば、たぶん同じ場面で代打に出てきて、やはりバットを三回、フルスイングしたことだろう。

衣笠は、通算504本のホームランすべてが自己表現だといいきった。フルスイングという彼なりの表現。その結果が1587個積み重ねた三振の日本記録でもある。

「ほとんどが空振りだと思う」
美学をまっとうした男の矜持だ。

62年6月11日、市民球場での大洋戦でルー・ゲーリッグの2130試合にならぶと、翌々日の13日、同じ広島市民球場の中日戦で2131試合連続出場の世界記録を達成した。6回裏に中日小松の速球をたたくと、みずからの快挙を祝うかのように超満員の観客を呑んだ左翼席に第8号の本塁打が飛び込んだ。このとき40才と4か月。

試合後のセレモニーで衣笠はいった。
「まず、私に野球を与えてくださいました神様に感謝します」

それからわずか四か月後。私たちにベースボールの迫力をフルスイングという表現で見せつづけてくれた衣笠は引退した。
シーズン最後の試合となった10月22日の大洋戦。23才からはじまり、40才までつづけた連続試合出場という《たったひとりの祝宴》は、2回に新浦寿夫から放った17号特大2ラン、504号が出たところでお開きとなった。

カープ猛者列伝 私家版

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# by bunkosha | 2016-03-11 15:50 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 2

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

  
 カープ初優勝戦士 その2 外木場義郎投手 
                    10.15の試合に先発した当時のエース
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『ノーコン投手』が成し遂げた三度のノーヒット 

ピッチャーの“勲章”はいくつかある。つぎに主なタイトルとそのホルダーの何人かあげてみよう。

最多勝利  通算    金田正一(巨人)  400勝
      シーズン  スタルヒン(トンボ) 42勝
            稲尾和久(西鉄)     〃
最高防御率 通算    藤本英雄(巨人) 1・90点
      シーズン    〃       0・73点
最多奪三振 通算    金田正一(巨人)  4490個 
      シーズン  江夏 豊(阪神)  401個

そうそうたる名前と、いまでは破格としか思えない記録がならぶ。どの数字も彼等の凄さ、というより凄まじさを語っているといえるだろう。

ところで外木場が、これらの偉大な投手たちから頭ひとつ抜きんでた記録のホルダーであることはよく知られている。

   ノーヒット・ノーラン試合 3回(完全試合1を含む)

これが外木場の持つ『日本最高記録』だ。
あの伝説の投手・沢村栄治も3回記録してはいるが、走者をひとりも出さない完全試合は達成していない。したがって外木場がタイトル・ホルダーといって間違いではないだろう。

ちなみに、前述の投手たちをみてみると、金田と藤本が完全試合1を含む2回、スタルヒンと江夏が1回、狭い平和台球場をホーム・グラウンドにしていた稲尾は1回も叶わなかった。

外木場が、最初にノーヒット・ノーランを達成したのは昭和40年10月2日、甲子園の阪神戦だった。相手投手は、シーズン終盤のこのゲームまで防御率トップの座にあったエースの村山。スコアは2対0で、3回に鎌田に与えた1四球だけの準完全試合だった。しかもこれがプロ入り初勝利。9試合つづけて中継ぎ、敗戦処理をしていたあとの突然の先発で成し遂げた快挙だった。

新人のノーヒット・ノーランは、プロ初年度の沢村栄治以来4人目だったが、初勝利は当時は画期的な記録だった。(その後昭和62年に、中日の近藤真一投手がナゴヤ球場で行われた対巨人のデビュー戦でノーヒット・ノーランを達成している)

そのスコアを記そう。
 
  球数96 打者28 回9 三振3 ゴロ7 内野フライ4 外野フライ13

三振は3つと少ないが、阪神のバッターは、外木場の伸びのあるストレートに詰まって17もの凡フライをあげていた。

「なんなら、もう一度やりましょうか」
試合後、外木場はそううそぶいたという。

これがホラでも冗談でもなく、外木場は本当に、しかもオマケに一試合余分にやってしまうのだから呆れるばかりだが、これだけの投手がそれからの三年間でたったの4勝しかあげていないのにも、やはり呆れるしかない。原因はノーコンと、それを解消できない練習嫌いにあったという。

三年で最高2勝、合計でも4勝だけだった外木場が、つぎの1シーズンで21勝する。昭和43年、根本睦夫がコーチから監督に昇格した年のことだ。それにしても中継ぎから先発にまわって、いきなりノーヒット・ノーランをやったり、2勝投手からいきなり20勝投手(この年21勝)になってみたり、外木場の“爆発力”には、ただただ驚くばかりだ。

その爆発力は、投球にもはっきりと認められた。いいときの外木場はまったく手がつけられなかった。43年9月14日、広島市民球場でやってみせた大洋戦での完全試合がそうだった。

中二日、疲れがとれないままマウンドにあがった外木場だったが、初回から球は走り伸びもあった。カーブは「一度浮いてから落ちる」感じで、バッターはのびあがってスイングしていた。内角へのストレートはえぐるようにナチュラルにシュートし、バッターの腰がひけたところでお得意の鋭く割れるカーブ。
「こりゃ打てんわい」と、中盤あたりから松原、近藤和、江尻といった主軸もお手上げ状態だった。9回は狙って獲りにいったらしく、きっちりと3者三振。16奪三振のセ・リーグタイ記録のオマケ付きでの快挙だった。運が味方したというより、“爆発力”でもぎとったような完全試合だった。

得点は前回のときと同じ、2対0。スコアはつぎのとおり。

  球数114 打者27 回9 三振16 ゴロ7 内野フライ0 外野フライ4
  
三度目は、四年後の巨人戦だった。開幕間もない4月29日の巨人戦(広島市民球場)で、王、長嶋がクリン・アップに座る強力打線を翻弄し、王に四球ひとつ与えただけのノーヒット・ノーランで三度目の快挙を記録した。

スコアは次のとおり。(広島3-巨人0)

  球数93 打者28 回9 四死球1 三振2 ゴロ9 内野フライ4 外野フライ12
 
「記録は破られるためにある」という。
しかし冒頭に並んだ投手たちの記録同様、外木場の『ノーヒット・ノーラン試合3回』、この記録が遠からず破られることを、だれも想像することはできない。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-03-09 10:04 | カープ猛者列伝

猛者列伝より

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社


カープが初優勝を決めた昭和50年10月15日の伝説のゲームが、はしめて一冊の本にまとめられました。
堀 治喜著の『初優勝 PLAYBACK 1975.10.15』です。

あの日グラウンドで熱く戦い、悲願の栄冠を手にしたカープのレジェンドたち。
その猛者たちの選手像を知ってから読めば、この物語の陰影も濃くなることでしょう。

そこで今回の発刊にあわせて、『カープ猛者列伝』から優勝ナインをピックアップしてご紹介いたします。
副読本としてお読みいただければと思います。


   カープ初優勝戦士 その1 大下剛史内野手
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初優勝をたぐりよせた『44個の執念』

野球中継を観ているとする。バッターが鋭く弾き返したボールがピッチャーの足元を転がり、センターに抜けようかという、まさにそのとき、画面の右隅からスルスルと二塁手があらわれる。「あっ」と思う間もなく二塁手は伸びるように逆シングルで捕球し、振り向きざま一塁に送球する。ボールはランナーが一塁に走り込む寸前に一塁手のミットにおさまり、間一髪「アウト!」。こんなプレイがテレビ観戦の醍醐味のひとつだ。

このプレイを見せ場にしていたのが大下剛史だ。
プロ野球が観せることを前提としているからには、選手には売り物がある。豪球・豪打をウリにする選手がいれば、技巧・巧打をアピールする選手もいる。大下の場合はそれが守備だった。
この売り物の守備が大下の運命を大きく変え、カープというチームに栄光をもたらすことになる。

ときは昭和49年。当時東映フライヤーズの二塁手だった大下は、大阪球場での南海戦で、自慢の守備を見せた。ランナー一塁でショート・ゴロを捕球した遊撃手からの送球を受けた大下は、いつものように走者に軽くタッチするや、その反動で一塁に送球した。ダブル・プレイの完成だ。ところが二塁の塁審は「セーフ」をコールした。完全にタッチしていたが、塁審は見逃していた。激昂した大下は抗議したが判定はかわらない。しかも、このタッチ・プレイをめぐって、味方チームのコーチと険悪なムードになった。
「キミのタッチが甘いから、セーフになった」
コーチは大下を責めた。

日ごろからコーチは大下のプレイを「基本に反する」といって批判していた。じぶんのプレイを理にかなっていると確信している大下との間には、いつからか修復できない溝ができていた。その日からふたりの確執は決定的となり、たぶんそのことが原因で大下はそのシーズン・オフにカープにトレードされた。

電話一本で「トレードに出す」という球団の姿勢に立腹したが、郷里の広島であったことは救いだった。「やってやろう。広島で見返してやる」大下はそう誓った。

この事件が49年に起こったというところが面白い。いうまでもなく、50年のカープ初優勝に大下が果たした役割は少くない。いや、もし大下がトレードで移籍してこなければペナント・レースの帰趨はどうなっていたかわからない。とすればカープ球団にとって、この事件が幸いしたといえるだろうし、後の大下にとっても吉とでた。災いは転じて、いつか福となるものだ。

新監督ルーツによるチームの意識改革。前年に大バケした山本浩二と衣笠(祥雄)。成長著しい脇役たち。ペナントを狙うための要素は揃った。そこに大下といういぶし銀の選手が加わって『カープ初優勝物語』のキャスティングはできあがった。

50年の開幕戦。「一番、セカンド大下」のアナウンスを聞いて神宮球場のバッター・ボックスに入った大下は、ヤクルト・スワローズのエース、松岡弘の快速球を巧みに軽打したかと思えば、スタンドへもぶち込んで見せた。
「これでいけれる」という自信をつかんだ大下は、シーズンを通して快打を放ちつづけた。塁に出れば果敢に盗塁し、ダイヤモンドを駆け回った。大下は走ることで得点に結びつけ、チームをけん引した。

カープに初優勝をもたらした盗塁は44個。これで大下ははじめてのタイトルとなる盗塁王を獲得した。この三年後、53年のシーズンを最後に引退してしまう選手が、確実に衰えている《足》でひたすらつぎの塁を狙った。その執念がカープ初優勝をたぐりよせた。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-03-08 22:03 | 出版あれレこれレ

お詫び

操作の手違いから、コメント欄の書き込みができなくなっていたようです。

もしこれまでコメントを入力されようとして、できなかった方がいましたら
お詫びいたします。

申し訳ありませんでした。
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# by bunkosha | 2016-03-05 10:17 | アナウンス
毎年恒例の「東京野球ブックフェア」行商。ことしも挙行いたします。

今回は恒例の「堀治喜・勝手にサイン会」のほか、堀治喜の最新刊「初優勝 PLAIBACK1975.10.15 広島東洋カープのもっとも熱かった日。」(プレジデント社)刊行を記念して「カープ初優勝・勝手にスライドショー」も企画しています。
また、「野球文化大学広島校」の開校準備のためにグッズなども即売予定。

書籍 
●「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ赤字にならないのか?」
 (一部では『カープ本』の名著、球団には迷惑本と評されているらしいロングセラー)
●「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」
 (初版本。誤字脱字が多すぎで販売を控えている稀覯本です)
●「カープ猛者列伝」
 (堀治喜の最新刊「初優勝 PLAIBACK1975.10.15 広島東洋カープがもっとも熱かった日。」 に登場する初優勝ナイン(助っ人をのぞく)が写真付きで紹介されています)
●「全身野球魂 長谷川良平」
 (最近なぜか売れているカープ初代エースの評伝です)
●「球場巡礼 第1・第2集」
 (第2集で休止したまま『記念碑』になろうとしている紀行)
●「わしらのフィールド・オブ・ドリームス」
 (おかしな連中が1995年に広島県北に手作り野球場『ドリームフィールド』をつくったお話)
●「『草野球の日』宣言。」
 (『ドリームフィールド』での10年の遊びの記録です)
●「天国から来たストッパー!」
 (早逝したカープ伝説の『炎のストッパー』津田恒美に捧げた魂の甦りの物語)

グッズ
●サインボール ・イチロー(公式使用球) ・仰木彰(1996年日本シリーズ使用球)
        ・大野豊 ・山本浩二 ・達川光男 ・木下富雄 ・新井貴浩
        ・田口荘 ・藤井康雄 ・カズ山本 ・小坂誠 ・白井一幸 など

●古書 カープ本各種、野球場関連本など                                                                                                                                                                                                           
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# by bunkosha | 2016-03-02 11:36 | アナウンス

球場巡礼について

球場巡礼 第1集

堀治喜 / 文工舎



ありがたいことに「球場巡礼」の1集、2集が、時々アマゾンから発注がかかります。

以前お知らせしましたように、このタイトルについては装丁の関係からアマゾンでの取り扱いを中止いたしました。
ご注文は直接、下記にメールでお願いいたします。

 メール bunkosha@excite.co.jp
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# by bunkosha | 2015-11-10 09:32 | 「球場巡礼」