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# by bunkosha | 2016-10-12 19:00 | 書籍一覧

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# by bunkosha | 2016-10-12 19:00 | 書籍一覧

猛者列伝より 7

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その7 池谷公二郎投手
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凄さと脆さとが同居した『好漢投手』 

「まるで、つかみどころのない投手だった」
そう結論づけたら本人に失礼だろうか。

しかし、あえてその称号を進呈したいほど、池谷公二郎には剛と柔、強気と弱気、あるいは長所と短所が入り交じった不思議なところがあった。

池谷は静岡商業高卒業後、金指造船に入社したが、1年もしないうちに野球部が解散。浪人の身の上になってしまった。
野球協約では社会人のチームに入った選手は3年間プロ野球に入ることはできないが、池谷は特別措置として近鉄に7位指名された。
しかし、「プロ入りのチャンスはまだある」と日本楽器へ移籍している。

昭和47年10月にニカラグアで開かれた世界選手権に全日本のエースとして出場した池谷は、大会での好投が関係者の目をひき、大リーグのパイレーツのスカウトに勧誘されるほどの脚光を浴びた。

この大会期間中に日本ではドラフト会議が開催され、池谷はカープに1位指名されたことを知った。
しかし廃部となった前野球部からこころよく引き獲ってくれた会社への義理から、もう1年残って恩返しをしてからカープに入団することにした。
このあたりは律儀で好漢といわれる池谷らしいエピソードだ。

さて、つぎのシーズンもフィリピン・アジア大会の台湾戦でノーヒットノーランを記録したり、イタリアのインター・コンチネンタル大会では優勝投手となるなど、池谷は輝かしい実績を積んでカープに入団してきた。

当然のこと周囲は期待した。
「10勝は固い」と首脳陣もファンも踏んでいた。
新人賞の呼び声も高かった。

ところが、オフに手術した虫垂炎の影響か結果は2勝4敗の成績に終わってしまった。

しかし池谷は翌年から、けっして美しいとはいえないピッチングフォーム同様「つかみどころのない投手」として本領を発揮しはじめる。

  50年 18勝11敗 防御率3・32(15位)  カープ初優勝に貢献
  51年 20勝15敗 防御率3・26(4位)  最多勝利

文句のつけようのない記録だ。しかしこの数字は池谷の『凄さ』という一面をあらわしているに過ぎない。もう一面をつぎに記そう。
 
  50年 投球回数244 被安打242本(シーズン最多) 奪三振131個
  51年 投球回数290 1/3 被安打271本(シーズン最多)
     奪三振207個(シーズン最多)
  52年 投球回数226 被安打241本 
     被本塁打48本(シーズン最多・日本記録) 奪三振176個(シーズン最多)

入団2年目、カープが初優勝した昭和50年に18勝をあげてエース格となったシーズン、池谷はほぼ毎回のようにヒットを打たれる『安打配球王』ともなっていた。
翌年、20勝をあげて最多勝に輝き最多奪三振王に輝いた裏では、2年連続して『安打配球王』の“名誉”に輝いていた。

翌52年には、2年連続して奪三振王となったと同時に、1試合投げれば10本近くヒットを打たれ、なおかつ『1シーズンでもっとも多くのホームランを喫した投手』となっている。

乱暴な言い方をすれば、池谷は、「めっためた」にヒットを打たれながら、「ばったばった」と三振を取り、ホームランを「ばかすか」打たれながら、いつの間にか勝っている。そんな投手だったということになる。

昭和53年9月12日の対中日戦。最終回に中日の小松健、田野倉、石井を3球ずつで三者連続の空振り三振にしとめるような快投を見せるかと思えば、棒球をつるべ打ちされて火だるまになって、あっさりと降板したり、またつぎの試合ではいとも簡単に完封勝利を飾ってみたり、ファンをやきもきさせながらも楽しませてくれた投手だった。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-04-20 11:39 | カープ猛者列伝

猛者列伝より 6

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その6 渡辺弘基投手
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もっとも熱かったシーズンに光った左腕

「おいしいとこ取り」
こういっては渡辺弘基に失礼だろうか。しかし、いいとこどりに変わりはない。

渡辺は通算で8勝(カープに在籍した5年間で7勝)しかしていないピッチャーなのだ。にもかかわらずファンの脳裏に渡辺の投球シーンはこびりついて離れない。

それはとりもなおさず、昭和50年、あの初優勝のシーズンの微熱の中で執拗に顔を出していたピッチャーだったからにほかならない。

渡辺は昭和47年、ドラフト1位で阪急に入団した。指名順位1位でわかるように、社会人ではかなり実績があった。
しかし阪急時代の2年間に40試合に登板して1勝しているにすぎない。

ところが昭和50年にカープに移籍してくると、別人のように安定したピッチングを見せるようになる。
ゆったりとしたフォームのサウスポーからキレのいいストレートと、大きく割れるカーブをコンビネーションよく投げ込み、渡辺はしだいに首脳陣の信頼を得ていった。

チームが快進撃をはじめた球宴後に、渡辺の八面六臂の活躍もはじまる。というよりも、渡辺の獅子奮迅の活躍でカープの快進撃がはじまったというべきか。

全試合ベンチ入りしブルペンで準備している渡辺に、毎試合のようにピンチになるとお呼びがかかる。
 「ピッチャー、わたなべ」
あのシーズン、この声を何遍聞いたことだろう。そのうち渡辺はじぶんでじぶんの出番がわかるほどだったという。

特筆にあたいするのが8月19日の阪神戦からの4連投と、それにつづく27日からの5連投。
まず阪神戦でアルトマンのワン・ポイントに使われ二塁ゴロにさばき、翌日は3イニング、つづく21日は5イニングをぴしゃりと抑えるなど、ほとんどでずっぱりで窮地を救い、3勝3敗1セーブの数字以上の働きで初優勝に貢献した。

「渡辺こそ陰のMVPだ」
古葉監督をしてそういわしめたほど、それは神懸かりの活躍だった。

渡辺の選手生活は、カープ初優勝のためだけにあったといっても過言ではないだろう。
そして「おいしいとこ取り」の野球人生でもあった。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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# by bunkosha | 2016-04-16 12:08 | カープ猛者列伝