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by bunkosha

猛者列伝より 5

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社

 
カープ初優勝戦士 その5 水谷実雄外野手
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天候人生の後につかんだ『ビクトリーボール』 

カープ・ファンにとって一番印象的な試合をあげるとすれば、だれもが昭和50年の初優勝をあげるだろう。
10月15日の後楽園球場。巨人最後のバッターとなった柴田勲が打ち上げたフライが夕焼けの空を背景にゆったりとあがり、やがて外野手が構えたグラブへとおさまった。

午後5時18分。
その瞬間、ちょうど四半世紀の間ファンが待ちに待ったカープの初優勝が決まった。そのウィニング・ボール、いやビクトリー・ボールを捕るという光栄に浴したのが水谷実雄だった。

それはカープというチームにとっては初優勝を決定したアウトだったが、水谷にとっては不動のレギュラーの座をがっちりとキャッチした瞬間でもあった。

その年を境に、水谷の球歴をわけてみる。
水谷は昭和41年に入団しているから、50年のシーズンがちょうど10年目ということになる。
その前半の10年を見てみると、あの日の後楽園球場に選手としていたことすら不思議でならない。それほど不遇だった。

水谷は40年、宮崎商業三年生のときに、主戦投手・四番打者として甲子園に出場している。
準決勝まで進んでベスト4。甲府工業高校の堀内恒夫とも投げ合い、ヒットも打っている。

その年のドラフトでカープに3位指名されたが、契約した直後に急性腎炎を患って倒れる。
40度近い熱がひと月もつづいたという。
患者の三割は死ぬ病気だと宣告され、「野球をやめないと、生命の保障はできない」とクギを刺されている。

プロのスタートからこれほどの試練を与えられた選手も珍しいだろう。
『ジンちやん』のニックネームはここからきたというのだから、苦笑するのもはばかられるような話だ。

悶々とした時間を送った水谷。
 「わしから野球をとったら何が残るのか」と、あらためてプロ選手としての決意をかためる。

キャンプに合流したのは、もう開幕間近の3月下旬だった。
もちろんすぐにファームに直行だ。
当時二軍監督だった藤村隆男の温情で、一年間ボールも握らず漢方薬を飲みながら、ランニングやウエイト・トレーニングで基礎体力をつけるだけの日々を水谷は過ごす。

ところで、後年の水谷しか知らないムキには想像できないかもしれないが、水谷は背番号「38」の投手として入団していた。
それが43年には肩を壊して内野手に転向せざるをえなくなった。
 「マウンドから離されるのはつらかった」という。

当然のこと二軍でのトレーニング生活がはじまった。水谷は一塁と三塁の守備練習をこなし、剣道の防具をつけて素手で捕るようなこともした。
売り物のバッティングを磨くために、シーズン・オフには球団からボールを山のように借りて帰り、いやというほどティー・バッティングをしたという。

高校時代四番で素質には恵まれていたとはいっても、すぐにポジションが取れるほどプロはあまくない。一軍入りは夢のまた夢。二軍のレギュラーポジションを狙うのに必死だった。
内野の守備も上達せず、いつからか外野に入ることが多くなった。

外野手転向で守備の負担が少なくなった水谷は、しだいにバッティングの才を発揮しはじめた。そして二軍の近鉄戦で1試合4ホーマーのばか当たりをしたのが首脳陣の目をひいて、ようやく一軍に昇格した。入団4年目、44年のシーズン途中だった。 

昭和45年、ようやく外野手として一軍に定着した水谷は、106試合に出場。打率.244。本塁打7本の成績を残した。 

翌46年には125試合に出場して打率.283。衣笠についでベストテン3位に入る活躍を見せる。この年3割をマークしたのは長嶋だけだから、かなりハイ・レベルの数字である。

これでポジションを獲った、と誰もが思った。ところがその翌年、カープは初めて外人選手と契約した。それがゴンザレスという外野手。水谷の出番は必然的に減らされた。出場試合は109だったものの、打数は150近くも減って344。打率も2割6分台にさがった。

明くる48年のシーズン、監督が別当薫にかわると、こんどは打撃フォームの改造をせまられる始末。じぶんの活路をバッティングに見いだし、こつこつと築き上げてきた打撃フォームを、あとからのこのこやってきた監督に簡単に覆されてはたまったものではない。水谷は我をとおして譲らず、必然的に干された。

イチローがやはりフォームをかえなかったために入団してしばらくは二軍からあげてもらえなかったのは有名な話だが、似たようなケースだ。

そして、あの50年。カープにはシェーンが入団してきた。
入団直後に大病に見舞われ、やっとはいあがってポジションを手にしたと思うと、のこのこやってきた外人選手にとってかわられる。そんな不遇に追い打ちをかけるように、毎年のようにもちあがるトレードの噂。夫人からはそのたびに「郷里に帰ろう」と懇願れたという。

バッティングが売り物とはいえ、周囲を唸らすだけの個性があるわけではない。長打力もほどほどにある。打率もそこそこに稼げる。しかし、どっちつかずだった。 

「長打か打率か」
 これからプロのバッターとしてやっていくためにはどうすべきか。選択をせまられた水谷は、後者を選択した。大きいのは犠牲にし、塁間を鋭く抜くヒットを狙うバッティングに改造することにしたのだ。

他人からの強制には頑固な水谷だったが、みずからの選択なら冒険も辞さない。試行錯誤の中からうまれたのが、バットをピッチャーに向けて寝かせて構える独特のフォームだった。

あのビクトリー・ボールを捕った翌シーズン、水谷の打率は3割を8厘超えた3割バッターとなって、やっと不動のレギュラーの座をみずからの手で勝ち取った。
翌年はまた上積みして打率.312。そして初優勝から3年後の昭和53年、ついに水谷は首位打者を獲得した。打率は・348の高打率。文句のつけようのない数字だった。
ちなみに、これはいまでもカープ球団の最高打率の記録となっている。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎


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by bunkosha | 2016-04-15 20:11 | カープ猛者列伝