猛者列伝より 4
2016年 03月 18日
カープ初優勝戦士 その4 三村敏之内野手
野球には数字にはあらせない、あるいは出てこない、数値化できないセンスというものがある。
ゴロを捕り、送球する。成功すればアウトだし、失敗すればエラーになる。
投球を打ち返す。野手の間を抜ければヒットだし、刺殺、あるいは捕球されればアウトになる。
記録にすればただそれだけのことになってしまうが、ひとつひとつのプレイの周辺にはさまざまなセンスが介在する。
守備でいえば、守備位置の取り方、咄嗟の状況判断、フットワーク、捕球の仕方、スローイング、すべてに選手独特のセンスがある。それはもちろん体操のように採点することはできないものだし、素人にはよく見えない部分でもあるのだが……。
カープの球団史上もっともセンスにあふれていたひとりが三村敏之だろう。バッティングや守備の技術にきらめくようなセンスがあったのはもちろんだが、プロ野球人としてのじぶんのスタイルを客観的に見るセンスも持っていた。ある意味ではクレバーであり、クールでもあった。
広商時代は俊足好打、そして好守のトップバッターで、『広岡二世』とも評されていた。
卒業後は法政大学に進むつもりで、セレクションまで受けていたが、ドラフトでカープに2位指名される。それでも三村は別に有頂天になるでもなく、誘いを断りつづけていた。
その三村が、ある日翻意をする。スカウトの熱意にほだされたこともあったが、
「いつか上でやるんなら同じこと」と、客観的に人生の状況判断をした。
三村は、中学から高校と控えになったことがなく、プロでもついに二軍を経験することのなかった『野球エリート』だが、入団後の三年間は低迷した。低迷しながら使われつづけた。それだけセンスを見込まれ、期待されていたわけだ。
42年 打率・182 6盗塁
43年 打率・210 7盗塁
44年 打率・200 9盗塁
プロ野球は、センスを見せるところではない。センスを活かして』数字』と『結果』とを残さなければ生きてはいけない世界だ。とすれば、この三年間の成績では首脳陣の覚えもめでたくはないだろう。
じっさい戦力外の話もでたという。
三村のその窮地を救ったのが、かつてじぶんが喩えられた先達・広岡達郎だった。
「才人才を見る」とでもいうのだろうか、44年のオフからコーチとなった広岡は、三村のいまだ発揮しきれていないセンスに目を留め、首脳陣を説得し残留させたのだった。
巨人の名ショートとしてならした広岡は、広岡二世・三村をあずかるようにして鍛えた。一方、さすがにクールな三村も「このままではプロ野球界で生きてはいけない」
そう思って尻に火がついただろう。ふたたび与えられたチャンスを懸命につかんだ。
一番・ショートで出場しはじめた三村は、開幕からひとが違ったように打ちまくり前半戦の打率・272、カープ打撃陣のトップを維持し、はれてレギュラーの座を不動のものにした。
翌46年には、セ・リーグ発足22年目にしてはじめての記録となる開幕戦の初回先頭打者ホームランを記録。シーズンでもふたケタとなる15本塁打を放ち、長打力の片鱗もみせた。
三村が最初で最後の3割を打ったのは翌47年。・308でヤクルトの若松についで2位となり、初のベストナインにも選ばれている。
このシーズン以後、三村は3割をマークすることはなかったが、それは三村が3割を打つ力がなかったからではなく、3割を打つ必要がなかったと解釈した方がいいだろう。
昭和50年に加入した大下が二年間セカンドを守った時期にショートに定着していた以外、三村はショート、セカンド、サードの3つのポジションに入っている。いわゆるユーティリティ・プレイヤーだ。
打順もトップからクリン・アップ、そして下位まで経験している。
そのシーズン、その日のメンバー構成によって、三村のポジションと役割は常に変わった。そのときどき、ポジションで期待されるプレイを及第点でこなす。それが三村の役割であったし、三村だからこそそれができた。
生涯の通算成績の数字にはあらわれない部分。そこに三村のたぐい稀なセンスが潜んでいる。
by bunkosha
| 2016-03-18 15:36
| カープ猛者列伝