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by bunkosha

猛者列伝より 3

初優勝 PLAYBACK1975.10.15 ― 広島東洋カープがもっとも燃えた日。

堀 治喜 / プレジデント社



 カープ初優勝戦士 その3 衣笠祥雄内野手 
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フルスイングに美学を求めたロマンチシズム 

1996年6月14日、カンザスシティのカウフマン・スタジアムでのロイヤルズ戦で、ボルチモア・オリオールズのカル・リプケン選手がスタンドを埋めた大観衆から盛大なスタンディング・オべーションを受けていた。それは彼の不屈の闘志、弛まぬ努力、そしてなによりベースボールを愛してやまないスポーツマン・マインドに対する賛辞の表現だった。

その群衆の中にひとりだけ、すこしちがった感慨をいだいていただろう男がいた。その男は、同じ心境を共有することができる唯一の人間の出現に歓びを感じていたかもしれないし、なんともいえない安堵感を抱いていたかもしれない。

衣笠祥雄。彼はルー・ゲーリッグの連続試合出場の記録を破った際に言っている。
「だれかがこの記録を更新してくれるのを待っている。この記録を本当に理解してくれるのは、その人間だけだろうからね」
衣笠の連続試合出場『2215』という数字にこめられたすべての思いを理解できる男、カル・リプケンがあらわれた。そして彼が『衣笠の世界記録』を更新するという熱狂のなかで、“キヌガサ”は世界に認知された。
その日の前日、つまりカル・リプケンが衣笠の連続試合出場の世界記録に並んだ6月13日、それは奇しくも、その九年前に衣笠がゲーリッグの世界記録を抜いた日でもあった。

衣笠の野球人生を検証してみると、その明と暗とがはっきりと浮き彫りになる。彼のバッティングそのまま、まさに『三振かホームラン』だ。
昭和39年、平安高校三年のときに衣笠は春・夏連続で甲子園に出場している。通算で14打数5安打1打点の成績だったが、975グラムのバットをふりまわす強肩強打の捕手として注目された。
翌40年、ドラフト制度が導入される前年にカープに入団。契約金1000万円、年俸120万円。当時の球団の経済状態を考慮すれば破格だった。

ここまでは見事な『ホームラン』だ。しかし、すぐ次の打席では『三振』してしまう。

入団そうそうの日南キャンプ。自主トレもろくにしていなかったにもかかわらず、衣笠はまわりにいいところを見せようと、はりきりすぎて肩を痛め、3日後にはまともに投げられない状態になってしまう。そしてついに肩は回復することはなかった。

ブルペンにも入れず、バッティング練習の捕手をつとめるだけのキャンプ……。5月になってやっと一軍ベンチ入りした日、ピッチング練習で大羽投手が投げたフォーク・ボールが受けられない。〝ストン〟と落ちる球にミットがおいつかないのだ。

「もういい」と見放されて《捕手失格》。あえなく『見逃し三振』してしまった。
それでも打力を買われてゲームに出ることはできた。一軍初出場は5月16日、中日球場の対中日7回戦。九回に佐々木勝の代打で出場し、坂東の二球目を叩いていいあたりの右飛。その後も低迷するチームに刺激を与えるためか、白石監督はルーキーの衣笠を機会あるごとに代打で使いつづけた。

シーズン途中に低迷するチームの責任をとって白石が辞任し、監督が長谷川にかわると、7月25日の大洋戦で早くも先発メンバー入り。その一か月後の8月22日には、阪神のエース村山から広島市民球場の一万人の観衆の前で初ホームラン。ツー・ボールからの3球目、真ん中高めのストレートを「からだをうまく球に乗せて」左中間スタンドの照明灯の下までライナーで運んだ。これはまさに衣笠にとって文字通り『会心のホームラン』だった。

結局、その年は22試合に出場して44打数で7安打。打率は・159。ホームランはその1本だけに終わった。

翌年は32試合に出たものの、ほとんどが代打で34打数5安打、打率は・147。ホームランは1本もなかった。
42年は48打数12安打で・250。ホームラン2本。この三年は低迷つづきで〝3打席連続三振〟というところか。

そんな衣笠が『出合い頭のホームラン』を打つチャンスをもらう。43年から就任した根本陸夫監督が、いきなりスタメンで五番、一塁手の大抜擢をしたのだ。
 《捕手失格》の烙印をおされた衣笠は、3年目のシーズン途中から一塁の守備練習をはじめていた。それが生きることになった。衣笠は期待に応え、127試合に出場して一気に109安打を量産し、打率・276。うち21本がホームランで、主砲山内とならんでチームの本塁打王に輝いた。ホームランの少なかったカープにとって、待望の長距離砲の誕生だった。
 
ところで衣笠のように、歴史に名を残す打者でありながら三割を一度しか打っていない選手も珍しいだろう。超一流の打者の仲間入りをしているものの、その本流からは少しはみでた、どこか不器用さというか愚直なイメージがつきまとう。そんな選手像を決定づけたのが、この年の活躍にあったのかもしれない。

貧打に泣いたカープの40年代。そんな時代にあって衣笠はホームランを期待され、衣笠自身も「ホームランか三振か」というフルスイングに美学を求めるタイプだった。

175センチ73キロは、ホームラン・バッターとして決してめぐまれていたわけではないが、野村克也のように何かスタイルを変えれば量産できるだけのパワーは持ち合わせていた。
 
「ボールを飛ばすんじゃない。ボールに飛んでいってもらえ。もっとボールを信用しろ」
 そうアドバイスする山内などの忠告にも耳をかさず、衣笠はじぶんのスタイルを守り、ボールを「ガツン」と叩いて飛ばしにいった。打率にしても、意識してアベレージを求めれば、何度でも三割は打てただろうといわれる。

その衣笠の『ホームラン美学』が狂おしいほどの光彩を放った一瞬がある。連続試合出場に赤信号が灯った試合、江川との対決だ。
昭和45年10月19日の巨人戦からはじまった衣笠の連続試合出場は、54年8月1日の同じ巨人戦で西本から肩甲骨にぶつけられたことで大ピンチとなった。左肩甲骨亀裂骨折。それが診断の結果だった。

「当たった個所にはボールの縫い目の痕がくっきり残り、皮膚の下にはボール大の血腫。手は脇から30度ほどしかあがらなかった」という。

過去に左手親指を骨折したときには、膨れて入らなくなったグラブのヒモをといて穴を広げて守備についた。だが、こんどばかりはだめかと、本人も周囲も思った。ところが「朝起きたら、あがらないはずの左手があがった」。

翌日の試合、衣笠は代打で登場した。そして江川のストレートをめいっぱい振って三球三振にたおれた。
痛む肩をかばうなら、四球を選びにいっても構わない。適当にスイングして凡打でも出場は出場だ。連続出場の数字にはかわりはない。しかし一球たりとも見逃すことなく、衣笠は三回ともフルスイングした。見ている方が背筋が寒くなるような張り詰めたシーンだった。

「それにしても江川の球は速かったね」
痛んだからだで、なおかつ振りきれた充実感が言わせたことばだろう。

もしあのとき、連続試合出場の記録がかかっていなかったらどうだったろうかと思う。 
「打てるという気持ちがなければ打席には入らなかった」と述懐する衣笠であれば、たぶん同じ場面で代打に出てきて、やはりバットを三回、フルスイングしたことだろう。

衣笠は、通算504本のホームランすべてが自己表現だといいきった。フルスイングという彼なりの表現。その結果が1587個積み重ねた三振の日本記録でもある。

「ほとんどが空振りだと思う」
美学をまっとうした男の矜持だ。

62年6月11日、市民球場での大洋戦でルー・ゲーリッグの2130試合にならぶと、翌々日の13日、同じ広島市民球場の中日戦で2131試合連続出場の世界記録を達成した。6回裏に中日小松の速球をたたくと、みずからの快挙を祝うかのように超満員の観客を呑んだ左翼席に第8号の本塁打が飛び込んだ。このとき40才と4か月。

試合後のセレモニーで衣笠はいった。
「まず、私に野球を与えてくださいました神様に感謝します」

それからわずか四か月後。私たちにベースボールの迫力をフルスイングという表現で見せつづけてくれた衣笠は引退した。
シーズン最後の試合となった10月22日の大洋戦。23才からはじまり、40才までつづけた連続試合出場という《たったひとりの祝宴》は、2回に新浦寿夫から放った17号特大2ラン、504号が出たところでお開きとなった。

カープ猛者列伝 私家版

堀 治喜 / 文工舎



 
by bunkosha | 2016-03-11 15:50 | カープ猛者列伝